北斗市議会 2021-06-15 06月15日-議案説明・質疑・一般質問-01号
その後に今の中学校を建てかえてよくしたら、まさしく市長、運動会やっても、子供から部落全部でものすごく盛り上がって、すばらしい運動会やっていますよね。僕が議長になって最初に卒業式に行ったのは、当別の中学校に行ったのですよ、第1回目に。7人の卒業生に、7人しかいないから、親にカーネーションだか何だか花を渡したり何だかして、すばらしい、大学校ではああいうことはできませんからね。
その後に今の中学校を建てかえてよくしたら、まさしく市長、運動会やっても、子供から部落全部でものすごく盛り上がって、すばらしい運動会やっていますよね。僕が議長になって最初に卒業式に行ったのは、当別の中学校に行ったのですよ、第1回目に。7人の卒業生に、7人しかいないから、親にカーネーションだか何だか花を渡したり何だかして、すばらしい、大学校ではああいうことはできませんからね。
そういった中で、これも住民の方からの声もありますが、同じ地区内におきましても、結構戸数が多い部落とまたは戸数の少ない部落に応じて、もちろんその地区内の距離的な問題もございますが、もう少し距離に応じての配置の改善、または増設はできないのかということでお伺いしたいと思います。 ○議長(渡部孝樹君) 町長。
このことから、昭和前期の広島村の項目は8ページにまとめられており、戦時中に特化した項目立てはないところでありますが、例えば、部落会が大政翼賛会の下部組織となったことなどが記載されております。また、地域誌においても、各地域における戦争の影響が記載されているところであります。 以上であります。 ○議長(野村幸宏) 12番、永井議員。
私のほんの隣の町内会も20戸近くありましたが、町内部落そろってこの当時離農いたしました。そして、私も土地拡大をできたわけでございます。面積拡大に伴う労働力不足を補うために、トラクターが急速に普及する要因になったとともに、この冷害を契機に十勝農業の体質改善に向けて、合理的な輪作体系の確立、地力対策、畜産振興などが打ち出されました。
私のほんの隣の町内会も20戸近くありましたが、町内部落そろってこの当時離農いたしました。そして、私も土地拡大をできたわけでございます。面積拡大に伴う労働力不足を補うために、トラクターが急速に普及する要因になったとともに、この冷害を契機に十勝農業の体質改善に向けて、合理的な輪作体系の確立、地力対策、畜産振興などが打ち出されました。
本当に年々、一年一年農家戸数が減っていくということで、本当に厳しさと寂しさを感じるわけでありますけれども、私の町内というか部落でも、半世紀前には約20戸ぐらいの農家戸数ということで稲作を中心にやっていましたけど、今現在、5戸です。そういう状況になっております。 そこで、またちょっと違う視点で質問させていただきますけれども。
於札内は、当時の酋長天川恵三郎の名から天恵部落とも地元では言われております。 その天川恵三郎は、請われて旭川近文の給与地没収を国に直談判して解決するなど、北海道アイヌの中でもその足跡をしっかりと残しております。 2012年に閉校された小樽量徳小学校の第1期生だったことが記録されており、於札内のアイヌは、小樽から強制的に移住をさせられたという説もあります。
昭和42年から44年にかけて、国はアメリカやヨーロッパのように、機械化しなければ日本の農業は発展しないと方針に打ち出しまして、それに従い、馬からトラクターへと変化をしていき、そのため、機械投資による大量の離農者が出まして、部落1つがなくなるという悲惨なこともありました。歴史は繰り返されると言われます。だからこそ、私は土や作物を愛する仲間を失いたくないから言っているのであります。
昭和42年から44年にかけて、国はアメリカやヨーロッパのように、機械化しなければ日本の農業は発展しないと方針に打ち出しまして、それに従い、馬からトラクターへと変化をしていき、そのため、機械投資による大量の離農者が出まして、部落1つがなくなるという悲惨なこともありました。歴史は繰り返されると言われます。だからこそ、私は土や作物を愛する仲間を失いたくないから言っているのであります。
近くに住んでいて、それがコミュニティーとなっていて部落的になっているというところもあるというふうに聞いています。そういったところの議員からぜひともそうならないように、事前に質問するべきだという提案をいただいて今回こういう質問をさせていただきました。 実際にこれから本市においても福祉の分野だったり、建設の分野、あらゆる分野でこの外国人労働力というのは必要になってきています。
それは、時田さんという開拓部落の山を持っていた人が寄附するからということで、大場さんに移りました。そのころは、町に補助申請が出たのだけれども、残念ながらお金がないものですから、それが補助できないで自前でやってきたと。30年の後半から40年前半にかけて、保育園、幼稚園、これを補助せという議会でも質問があったのです。ところが、なかなかいい議員もやはりいたのでしょう。
主な停車場には農産物検査場が開設されたので、沿線住民の代表は製糖会社にお願いして、我々各部落の雑穀を帯広まで運んでいただくことになりましたとチラシを配り、利用を呼びかけたとのことであります。 一方、旅客輸送のほうは大正12年1月に一部の軌間で営業許可となりましたが、北海道製糖側で一般運送営業を行うだけの体制ができてなかったので、すぐさま実施に移すことができなかったのであります。
主な停車場には農産物検査場が開設されたので、沿線住民の代表は製糖会社にお願いして、我々各部落の雑穀を帯広まで運んでいただくことになりましたとチラシを配り、利用を呼びかけたとのことであります。 一方、旅客輸送のほうは大正12年1月に一部の軌間で営業許可となりましたが、北海道製糖側で一般運送営業を行うだけの体制ができてなかったので、すぐさま実施に移すことができなかったのであります。
町内会の歴史は古く、1937年の日中戦争のころから日本各地で組織され始め、1940年に市に町内会、町村に部落会が国によって整備されたのが起源となっています。 1959年に発生した伊勢湾台風を契機に、災害対策基本法が成立し、住民同士の防災活動が重視されるようになりました。地域住民による自主防災組織の設置に関する規定が設けられ、町内会を母体とした設置起因となりました。
皆さん、思い出していただきたいのは、昔は地域、地域、どこの部落にでもお店屋さんがありましたでしょう。石けんを売っているし、味噌、米から、たばこから、何でも売っているような小さいデパートですけれども、何々店というのがあったのですけれども、ほぼ500メーター間隔にあるのです。ですから、人間が健常者で徒歩で買い物という用事を済ませる距離というのはほぼ500メーターぐらいなのです。
その天川恵三郎をとって、みんな浜益の地域の人たちは、天孫部落、天孫部落と、こう言っているのです。 旭川の近文の給与地が和人に支配されようとしたときに、直談判に政府に行ったのが浜益の酋長、この人しかいないだろうということで、その実際の足跡も語り継がれております。
実は、先週かな、新聞に載っていたのは、十津川村ですか、2年か3年前に大雨災害あって、あそこが部落の数が人口3,000ちょっとで何十かあるそうなのです。これもやっぱり集住する動きになってきた。大滝もそうなのですが、大滝をなくさないためにはそういう取り組みも必要ではないかということも住民に理解していただく。
私が小学校5年生のころ、部落のお祭りに参加して、自分の働きでお金を得たときのうれしかったことは、今でもよく覚えています。また、中学生時代には、杉の枝についた稚貝を外すお手伝いをして、代金をいただき、うれしく思ったことを覚えています。働けば、お金を稼げて、働いたお金で欲しい物が買えるという体験、労働のとうとさを知ることができました。
だけれども、部落に行くと集まっているのですよ、部落に行くと、それだけやっぱり関心があるのですね。町場に来ると意外と人が集まらない、そういう現象もありますので、今、森下議員が言われたことをよく申し送りして、担当者にもよく申し送りします。 以上です。 ○議長(鈴木保昭君) 森下義照君。 ◆12番(森下義照君) それでは、2問目に移ります。
隣の部落にもあるし、うちの部落にもくれというような感覚でやってきたと思います。しかし、それと同時に高齢化をしてきて、かつてのように利用する人も減りつつあると。それはなぜかというと、やっぱりリーダーになる方が高齢化してきたというのが大きな理由だろうと思いますし、また私どもの世代、いわゆる団塊の世代以降というのは割と個人主義的な傾向が強くて、団体活動が苦手だという世代にかわってまいりました。